2016年3月10日木曜日

神様から与えられたら責任分担と、教会内で言われている責任分担(アベルから言われた、責任分担など)は、意味が違う。

神様も干渉できない。
責任分担の完遂とは、神様に対する信仰を堅持し、戒めを固く守る中で、誰の助けも受けないで、内的外的に加えられる数多くの試練を自らの判断と決心で克服しながら、愛の実践を継続することをいう。
教会内での、教会員、アベルなどから言われる責任分担は、仕事に近い内容だと思います。
何故、この事を言うか?
本来の、神様からの責任分担の意味がわからないで、責任分担の完遂はあり得ないと思います。(神の子に成れない…)
私の考えです。
あなたの考えは、…

統一思想に書いてある、責任分担の内容です。
読んでみて下さい。

被造物の中で堕落したは人間だけです。万物は堕落しないでみな完成し、それぞれの次元において神様の属性に似ているのです。ここで次のような疑問が生じるかもしれません。すなわち万物の霊長であるといわれている人間が、なぜ霊長らしくなく堕落したのかという疑問です。それは、万物が原理自体の主管性または自律性だけで成長するようになっているのに対して、人間には、成長において、原理の自律性、主管性のほかに責任分担が要求されたからなのです。

 創造性と責任分担
 ここで原理自体の自律性とは有機体の生命力をいい、主管性とは生命力の環境に対する影響力をいいます。例えば一本の木が成長するのは、その内部の生命力のためであり、主管性はその木の生命力が周囲に及ぼす影響をいうのです。人間の成長の場合にも、この原理自体の自律性と主管性が作用しています。しかし人間においては、肉身だけが自律性と主管性によって成長するのであって、霊人体はそうではありません。霊人体の成長には別の次元の条件が要求されます。それが責任分担を完遂することなのです。
 ここで明らかにしたいことは、霊人体の成長とは、肉身の場合のように霊人体の身長が大きくなることを意味するのではありません。霊人体は肉身に密着しているので、肉身の成長に従って自動的に大きくなるようになってはいますが、ここでいう霊人体の成長とは、霊人体の霊性の成熟のことであり、それは人格の向上、心情基準の向上を意味します。要するに、神様の愛を実践しうる心の姿勢の成長が、霊人体の成長なのです。
 このような霊人体の成長は、ただ責任分担を完遂することによってのみなされます。ここで責任分担の完遂とは、神様に対する信仰を堅持し、戒めを固く守る中で、誰の助けも受けないで、内的外的に加えられる数多くの試練を自らの判断と決心で克服しながら、愛の実践を継続することをいう。

 神様も干渉することができず、父母もいない状況で、そのような責任分担を果たすということは大変難しいことだったのですが、アダムとエバはそのような責任をすべて果たさなければならなかったのです。しかしアダムとエバはそのような責任分担を果たすことができず、結局、サタンの誘惑に陥って堕落してしまったのです。それでは神様はなぜ失敗しうるような責任分担をアダムとエバに負わせたのでしょうか。万物のように、たやすく成長しうるようにすることもできたのではないでしょうか。
 それは人間に万物に対する主管の資格を与えるためであり、人間を万物の主管主にするためだったのです(創世記1/28、『原理講論』P131)。主管とは、自分の所有物や自分が創造したものだけを主管するのが原則であり、他人の所有物や他人の創造物は主管しえないようになっています。ここに人間は万物よりあとに創造されたのですから、万物の所有者にも創造者にもなりえないはずなのです。しかし神様は、人間を神様の子女として造られたために、人間に御自身の創造主の資格を譲り与え、主管主として立てようとされたのです。そのために人間が一定の条件を立てるようにせしめて、それによって人間も神様の宇宙創造に同参したものと認めようとされたのです。

 人間の完成と責任分担
 その条件とは、アダムとエバが自己を完成させることなのです。すなわちアダムとエバが誰の助けも受けないで自己を完成させれば、神様はアダムとエバが宇宙を創造したのと同様な資格をもつものと見なそうとされたのでした。なぜならば、価値から見るとき、人間一人の価値は宇宙全体の価値と同じだからです。すなわち人間は宇宙(天宙)を総合した実体相であり(『原理講論』P60,61)、小宇宙(同上P84)であり、また人間が完成することによって初めて宇宙創造も完成するからです。イエス様が「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。または、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイ16/26)と言われたのも、そのような立場からです。したがってアダムとエバが自ら自身を完成させれば、価値的に見て、アダムとエバを宇宙を創造したのと同等な立場に立つことになるのです。
 創造は、創造者自身の責任のもとでなされます。神様が宇宙を創造されるのに神様自身の責任のもとでなされました。そしてアダムとエバが自身を完成させることは、創造主たるべきアダムとエバ自身の責任なのでした。そのような理由のために、神様はアダムとエバに責任分担を負わせたのでした。

 しかし神様は愛の神様であるがゆえに、100パーセントの責任をアダムとエバに負わせたのではありませんでした。人間の成長の大部分の責任は神様が負い、アダムとエバには5パーセントという非常に小さな責任を負わせて、その5パーセントの責任分担を果たしさえすれば、彼らが100パーセントの責任分担を果たしたものと見なそうとされたのでした。そのような神様の大きな恵みにもかかわらず、アダムとエバは責任分担を果たすことができずに堕落してしまったのです。そのために結局、神様の創造性を完全に受け継ぐことができなくなったのです。
 万一、人間が堕落しなかったとすれば、いかなる結果になったのでしょうか。人間が堕落しないで完成したならば、まず神様の心情、すなわち愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動をそのまま受け継いで、神様が愛の神様であるように人間は愛の人間になったでしょう。そして心情を中心とした神様の創造性を完全に受け継ぐようになったでしょう。

統一思想より

ありがとうございます。
 
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神様と真の父母様に感謝します。

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