2020年4月29日水曜日

み言『本来堕落しなかったなら、霊界に行った全ての人達が「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格を持つのです。これをもたずには、天上界に行けない様になっているのが原理です。 …』地上生活と霊界より

第五節 真の父母の家庭と霊界
  一 霊界の長子権成立  
興進が霊界に行く事によって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子の様に一つに結ばれる様になりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。これが原理観です。 
興進は息子格のアベルですが、その息子は、「真の父母」の愛の原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤から霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それ故、堕落以後、最初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件を持っているのです。本来堕落しなかったなら、霊界に行った全ての人達が「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格を持つのです。これをもたずには、天上界に行けない様になっているのが原理です。 
イエス様やキリスト教は、今迄その立場を経る事ができずに行った為に、全部中間霊界にいるのです。所で、興進が行く事によって、神様と接ぎ木する事が出来る中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場に成るのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問する事が出来る霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。興進の家庭基盤を設定したという事が、最も貴いのです。 
イエス様が死んだとしても、この様な事ができたなら、今日キリスト教はその様に犠牲になりません。しかし、仕方がないと言うのです。何故でしょうか。「真の父母」の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去し、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかった為に、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。 
興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしていると言うのです。そうなれば、どんな事が起こるのでしょうか。霊界と地上を双子の様な心情圏として見る時、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち縦的に見れば、父母が先立ったのです。興進が二代なのです。下だと言うのです。 
ところが、霊界では反対だと言うのです。地上で先生と興進の出生について見る時、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外の全ての霊人達は、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、その様に成るのです。神様の立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は小さい息子に成るのです。 
霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として最初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまに成るのです。それで、長子権の心情基準が興進をつかんで入るという結論が出てくるのです。これは原理講義する時、よく説明しなければならないのです。 
今霊界にいる霊人達の前に、イエス様の前にもそうであり、全ての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だと言うのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だという事です。 
それ故、興進が、長子権の福を次子圏に相続してやる事が出来るのです。サタンは、相続してやるまいとしたのです。サタンは、相続をしてやらず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上に行っていた福を全部残してくれると言うのです。ですから、つながります。今迄サタン世界は、全部残してやるまいとするのに、興進は絶えず残してやろうとするのです。(一三一―五二)

2020年4月24日金曜日

4/24のみ言「天国と地獄は自身が選択する」地上生活と霊界 第四章 天 国より

地上生活と霊界
第四章 天 国
第四節 天国の門と天国入城

四 天国と地獄は自身が選択する

 信仰生活をしながら、我々は不平を言ってはいけません。不平を言える内容がありません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながら、笑って行くべきなのです。このように教えてあげましたが、それをどうしますか。しなければ、できません。神様もできません。先生もできないのです。
 それゆえ、天国に行き、地獄に行くのは、自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのではなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言うところを感謝していけば、天国なのです。(九六―一二二)

 天国へは、誰かが教えてあげて行くようになっていません。良心的に生きる人は、自動的に行くようになっている所が天国です。太陽の光が差せば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草木までも、自ら方向性をもって回るのに、まして万物の霊長である人間が、自分の行くべき道を知らないはずがないのです。このような現象が起こるのです。(七五―四二)

2020年4月3日金曜日

天聖経『地上生活と霊界』第三章 「霊界」「四 霊的体恤の過程」のみ言

四 霊的体恤の過程

 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。
 主体は確定していますが、自分は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。
 自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。
 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。
 全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。
 そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。
 我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。
 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」とかという言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。
 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前一時に祈祷するのと、三時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。
 そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間にうまくいくかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。うまくいくというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。
 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっているために、それをより分けて行くということは、限りなく難しいのです。
 このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ7 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。
 それゆえ、信仰生活で一番重要なこととは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、最も重要な問題です。それゆえ、皆さんが信仰生活でいつも注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。
 それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
 だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。
 昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感じるようになっています。
 それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。
 このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。
 我々の心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ7 今、こんな時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
 そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に暗示という言葉あります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀にとどまっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。
 実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。
 この段階を過ぎるようになれば、どんな形態が起こるでしょうか。夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に第三の天を体験しました。
 そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出せというのです。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、一〇〇パーセント的中するようになります。そんな体験があるでしょう。
 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことを言うのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることを言います。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることを言います。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。
 そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、そんなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかっためであり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。
 祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
 それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように探す心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
 それゆえ、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そんな形態が繰り広げられるのです。
 我々の体には、触覚のようなものがあって、全部接触します。それで、見えない電波のようなものを発射して、対象を探しています。
 それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。
 皆さん全部が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。
 その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、我々は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな幻想が繰り広げられるのです。
 そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。我々の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平のような面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで、全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。
 啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。それゆえ、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰が高貴なために、啓発していかなければなりません。
 我々食口たちは、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、我々の体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。
 それゆえ、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
 このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に一〇〇パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。
 皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
 このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは我々の信仰生活に最も必要なことです。
 そのような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。大概、我々人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。
 そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様7」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。
 大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。
 世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に伯仲する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
 それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれません。
 我々人間には、二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。初めは太いのですが、細くとがれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ我々は、これを調整する生活をしなければなりません。
 祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです。(七六―一二五)