2016年3月31日木曜日

神様の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であると表現することも で きるのです。

天の父母様と真の父母様の導きと真の愛に感謝します。

心情とはで、私が気になった事とみ言を、はじめに、紹介します。
『愛には必ず対象が必要です。特に神様の愛は抑えがたい衝動であるため、その愛の対象が絶対的に必要だったのです。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかったのです。』
私たちも、対象が必要で、全てにおいて、対象を、無意識のうちに探しているのではと思います。
勿論、本然の姿ではないので、対象が見つかっても、葛藤があったりしますが、本然の姿に近い形での対象を求めていると思います。
意識する事は大切です。
無意識でなく、意識して対象圏をつくりましょう。
(私も、意識して、努力します。)

『神様は愛の対象として人間と万物を創造されたのです。人間は神様の直接的な愛の対象として、万物は神様の間接的な愛の対象として創造されたのです。万物が神様の間接的な対象であるということは、直接的には万物は人間の愛の対象であることを意味します。そして創造の動機から見るとき、人間と万物は神様の愛の対象でありますが、結果から見るとき、人間と万物は神様の喜びの対象なのです。』
このみ言を読んで、神様の対象に人間と万物を創造した、対象の主体に人間、対象の対象に万物を創造しました。
神様は、天宙を創造しました。無形実体世界と有形実体世界主体と対象の関係ですよね。
(神様の創造の対象の主体の無形実体世界と対象の対象有形実体世界)
無形実体世界は、神様の直接主管圏であり、有形実体世界は、神様の間接主管圏(人間をとうして万物を主管するため)
喜びにも、直接的な喜びと間接的喜びがあります。
間接的喜びは、人が喜んでいるのを見て喜ぶことです。
私が感じた事です。
感謝します。

ここから、統一思想の内容です。
全てのみなさんに神様の真の愛と心情が伝わりますように祈ります。

 神様は心情である
 神様は心情すなわち愛を通して喜ぼうとする情的な衝動をもっておられますが、そのような神様の衝動は人間の衝動とは比較にならないほど抑えがたいものだったのです。
人間は相似の法則に従って、そのような神様の心情を受け継いだので、たとえ堕落して愛を喪失したとしても、喜ぼうとする衝動はそのまま残っているのです。ゆえに、情的な衝動を抑えるのは難しいのです。
 ところで神様において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられています。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないためです。
したがって、愛そうとする衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのです。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望を意味します。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられないということを意味します。
 そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が誘発されます。したがって愛の衝動が一次的なものであり、喜ぼうとする衝動は実は愛そうとする衝動が表面化したものにすぎないのです。
 ゆえに神様の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であると表現することもできるのです。
愛には必ず対象が必要です。特に神様の愛は抑えがたい衝動であるため、その愛の対象が絶対的に必要だったのです。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかったのです。

 宇宙創造と心情
 このように心情が動機となり、神様は愛の対象として人間と万物を創造されたのです。人間は神様の直接的な愛の対象として、万物は神様の間接的な愛の対象として創造されたのです。万物が神様の間接的な対象であるということは、直接的には万物は人間の愛の対象であることを意味します。そして創造の動機から見るとき、人間と万物は神様の愛の対象でありますが、結果から見るとき、人間と万物は神様の喜びの対象なのです。
 このように心情を動機として宇宙創造の理論(心情動機説)は創造説が正しいか生成説が正しかという一つの現実問題を解決することになるのです。そして生成説(プロティノスの流出説、ヘーゲルの絶対精神の自己展開説、ガモフのビッグバン説、儒教の天生万物説など)では、現実への罪悪や混乱などの否定的側面までも自然発生によるものとされて、その解決の道がふさがれているのですが、正しい創造説では、そのような否定的側面を根本的に除去することができるのです。

 心情と文化
 次に、「心情は神様の性相の核心である」という命題から心情と文化の関係について説明します。神様の性相は内的性相と内的形状から成っていますが、内的性相は内的形状よりもより内的なのです。そして心情は内的性相よりもさらに内的なのです。このような関係は、創造本然の人間の性相においても同じです。
 これは心情が人間の知的活動、情的活動、意的活動の原動力となることを意味します。すなわち心情は情的な衝動力であり、その衝動力が知的機能、情的機能、意的機能を絶えず刺激することによって現れる活動がまさに知的活動、情的活動、意的活動なのです。
 人間の知的活動によって、哲学、科学をはじめとする様々な学問分野が発達するようになり、情的活動によって、絵画、音楽、彫刻、建築などの芸術分野が発達するようになり、意的活動によって、宗教、倫理、道徳、教育などの規範分野が発達するようになります。
 創造本然の人間によって構成される社会においては、知情意の活動の原動力が心情であり愛であるがゆえに、学問も芸術も規範も、すべて心情が動機となり、愛の実現がその目標となります。ところで学問分野、規範分野の総和、すなわち人間の知情意の活動の成果の総和が文化なのです。したがって創造本然の文化は心情を動機とし、愛の実現を目標として成立するのであり、そのような文化は永遠に続くようになります。そのような文化を統一思想では心情文化、愛の文化、または中和文化と呼びます。
 しかしながら人間始祖の堕落によって、人類の文化は様々な否定的な側面をもつ非原理的な文化となり、興亡を繰り返しながら今日に至っています。これは人間の性相の核心である心情が利己心によって遮られ、心情の衝動力が利己心のための衝動力になってしまったからです。
 そのように混乱を重ねる今日の文化を正す道は、利己心を追放し、性相の核心の位置に心情の衝動力を再び活性化させることによって、すべての文化の領域を心情を動機として、愛の実現を目標とするように転換させることなのです。すなわち心情文化、愛の文化を創建することなのです。このことは「心情は神様の性相の核心である」という命題が、今日の危機から文化をいかに救うかというまた一つの現実問題解決の基準になることを意味するのです。

 心情と原力
 最後に心情と原力について説明されています。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神様から一定の力を受けています。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受しています。前者は縦的な力であり、後者は横的な力です。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力といいます。
 ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体なのです。具体的に言えば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force)なのです。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Force)として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのです。したがって万有原力は神様の原力の延長なのです。
 万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるということは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していることを意味するのです。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しんたくも良いというような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなければならない天道なのです。
 このように「心情と原力の関係」に関する理論も、また一つの現実問題の解決の基準となることがお分かりになると思います。すなわち「人間は必ず他人を愛する必要があるのか」、「時によっては闘争(暴力)が必要な時もあるのではないか」、「敵を愛すべきか、打ち倒すべきか」というような現実問題に対する解答がこの理論の中にあることがお分かりでしょう。
統一思想より
ありがとうございます。
みなさんに神様の祝福がありますように。
感謝します。

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