2020年6月20日土曜日

まず物質祝福時代を通して人間祝福時代が来て、その次に神様を主とした心情祝福時代が来るようになっています。

礼節と儀式
第三章 礼拝と教会生活礼節
五 献金は法度に合うように捧げるべし   
1.十分の一献金を捧げる法

私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだというのが、私たちの主流思想です。
まず物質祝福時代を通して人間祝福時代が来て、その次に神様を主とした心情祝福時代が来るようになっています。

2020年5月15日金曜日

「天国と地獄は自らが選択する」人間の生と霊魂の世界より

第二章 霊界はどのような所か  
ニ 天国と地獄
6.天国と地獄は自らが選択する   
 天国へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのでなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国だというのです。(96-1221978.1.2)

2020年5月10日日曜日

「霊界に行けば、神様は愛の本体であるので、光と熱で現れるのです。」人間の生と霊魂の世界より

第二章 霊界はどのような所か  
一 霊界の実相と法度   
1.霊界は時空を超越した無限の世界 

 霊界がどれぐらい広大無辺な世界か知っていますか。今日、この宇宙だけで見てもそうです。220億光年以上になる宇宙です。これがどれほど大きいかといえば、光が1秒間に3億メートル、1秒間に地球を7回り半回れる速度で1年間進む距離を1光年と言いますが、それが220億年かかるというのです。200日ではありません。ですから、宇宙がどれほど大きいでしょうか。それがすべて私たちの活動舞台だというのです。(206-831990.10.3)

 愛は熱に例えて表現されます。熱に例えるでしょう。「胸が熱い」と言うでしょう。霊界に行けば、神様は愛の本体であるので、光と熱で現れるのです。
 霊眼で見れば、皆さんの愛の光がどれだけ出るか、どんな光が出るか、まだらな光が出るか、虹の光が出るかということがみな分かるようになっているのです。家庭が一つになって光る星にならなければなりません。星たちもすべて衛星のようになっていて、星を率いる星もあるのです。太陽のようにです。(303-421999.7.4)
             
 神様が創造する時、最も好きな色を先につくったのでしょうか、最も嫌う色を先につくったのでしょうか。それなら、早春に咲く花の色は何色でしょうか。紫色です。紫色は赤色も入っていて、ピンクも入っていて、それから何色が入っているでしょうか。すべて入っているのです。紫色が好きでしょう。ですから高尚な物は、すべて紫色です。あの世に行ってみれば、最も良い色は紫色なのです。(197-491990.1.7)

2020年5月9日土曜日

「神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母は神様に代わる生きた神様であり、夫と妻はお互いにもう片方の神様であり、息子、娘はまた一つの小さな神様です。」

人間の生と霊魂の世界

第一章人生の行くべき道
四 天国に入る秘訣 

四大心情圏の愛の実体が天国に行く

 皆さん、このような話は初めて聞いたでしょう。四大心情圏と三大王権を復帰し、皇族の愛をもっていくべき祖国が天国です。死んでみれば分かります。いくら優秀な人でも、ここにすべて引っ掛かります。その時になって「文総裁の言うことを聞いていればよかった!」と後悔せず、早く決定して祝福を受けなければなりません。それが最も早い解決方法です。それとともに学ぶのです。
 男性、女性が和合し、天国の失ってしまった家庭を取り戻して、神様を王として侍らなければなりません。ですから、おじいさんは神様の代わりです。おじいさんを神様の代わりとして侍らなければなりません。自分の父母は、50億人類の家庭を中心とした王です。その息子、娘には未来の王のように侍らなければなりません。神様のように、現代家庭を代表した王のように侍る父母の道理を受け継いで、千年、万年にその道理を残していく世界が地上天国となるのです!アーメン!(239-761992.11.23)

天国は家庭単位で入る

 神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母は神様に代わる生きた神様であり、夫と妻はお互いにもう片方の神様であり、息子、娘はまた一つの小さな神様です。
 このように3代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さなくては天国が成されません。家庭というものは、宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。こういう場合、神様は、全宇宙の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。(298-3061999.1.17)

 家庭天国を成す所で、初めて神様が理想とする地上天国が定着するようになるのです。これが、四位基台にならなければなりません。「統一原理」では「創造理想の完成は四位基台の完成である」と説いています。それはなぜですか。神様とアダムとエバを中心として三段階を経て、縦的世界と横的世界が生まれれば四位基台が成されるからです。アダムとエバの息子、娘がいてこそ横的な世界が生まれます。このようになれば縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めて神様が臨在なさることができるので、地上に天国が実現されるのです。(96-291978.1.1)

2020年5月8日金曜日

習慣性は、永遠にそのままです。そのように難しいものなのです。しかし、地上では直すことができます。今まで習慣になったことよりも、もっと新しいことを習慣化させれば地上では清算できます。今、しなければなりません。

人間の生と霊魂の世界
第一章人生の行くべき道
三 地上生活の価値   

 習慣性は、永遠にそのままです。そのように難しいものなのです。しかし、地上では直すことができます。今まで習慣になったことよりも、もっと新しいことを習慣化させれば地上では清算できます。今、しなければなりません。今、しなければ霊界に行って問題になります。霊界に行って引っ掛かってしまうのです。(2892081998.1.2)

 聖書の、「地で結べば天でも結ばれ、地で解けば天でも解かれる」という論理も、このような二重構造の一体性を知ることによって解明できるという結論が出てくるのです。今日、私たち人間は肉身をもったこの期間が本当に、どれほど貴重なのかを知らなければなりません。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、全天下を統一し得る期間は、肉身をもっているこの期間しかないという結論になるのです。
 神様と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えることができないのです。なぜそうなのでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成できないためです。それゆえ、今日私たち人間の体がどれほど貴重なのかを知らなければなりません。それは素晴らしいでしょう。(911911977.2.13)

 60を越えれば下野し、故郷の農村に帰って土地を耕し、霊界に行く準備しなければなりませんが、その準備が忙しいのです。ですから精誠を尽くして先生のように農村に埋もれながら、農村を指導できる、このような責任を果たさなければなりません。
 ですから、趣味産業、趣味生活をやり終えて霊界に行ってこそ、高い霊界に行くことができ、情緒的な人になって霊界の舞台を活用できる皆さんとなるのです。どうですか。(2891931998.1.2)

鹿のような獣も育ててあげ、魚も育ててあげ、それから穀物も自然と人工を交えて育て、すべて育てるというのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか! 神様が創造したすべてのものは何であっても再生させ、それを願いながら神様を考え、自然と調和を成し、このすべてのものがお互いに助け合って生き、趣味をもって暮らしたのちに霊界に行くのです。
 このようにすることによって、都市集中の世界をすべて分散できるのです。何の話か分かりましたか。(2522101993.12.30)

「地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに覚醒し、その重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年、万年、霊界に行ってする生活に、それが反映されるのです。これはすべて種です。」人間の生と霊魂の世界より

第一章人生の行くべき道
三 地上生活の価値   
1.地上は愛の実を収める所

地上生活が絶対に重要です。地上がどれほど重要かということを知らなければなりません。キリスト教徒たちは「死んで天国に行く」と考えますが、妄想的です。地上で完成しなければならないのです。地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに覚醒し、その重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年、万年、霊界に行ってする生活に、それが反映されるのです。これはすべて種です。
ここで種を蒔いたものが天上世界で実として収められるので、完全な種をうまく蒔かなければならないということです。地上世界の重要さに、もう一度覚醒しなければなりません。(2323221992.7.10)
            
 私たちは、神様の愛によって生まれ、その愛によって生きながら、息子、娘を生んで愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様のもとに帰るのです。すなわち私たちの一生というものは、愛によって始まり、愛によって成熟して、愛の実として摘み取られるのです。人が死ぬというのは、愛の実を摘み取るということです。
 私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を分かち合い、子女を愛したので、神様の愛が内的な愛の世界に蒔かれた、そのすべてを、私が一生をかけて実を結び、摘み取ってあの世に行くのです。ですから、私たちが愛で完全に一つになれば神様に似るようになります。夫婦が一つになって、このような3段階の愛を完全に成し、霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。ですから、神様によって始まり、神様によって締めくくるのです。(2983111999.1.17)
             
 愛の実を摘み取って倉庫に送っていたならば、天国が成され、天国の家庭と天国の国と天国の民になっていたはずですが、これが中間で腐って落ちて、すべて腐るようになったので、地獄の家庭になり、地獄の民になってしまったのです。
 そのようになったことを「堕落」と言います。落ちたというのです。私たちが堕落し、地獄に生きているというこの二つのことは、嫌でも認めなければなりません。愛の実を結んで天国の倉庫、天国に行かなければならないのに、堕落したがゆえに地獄の倉庫で腐っているというのです。(282151997.2.16)
             
 子女、兄弟、夫婦、父母がすべて一点に行って実が結ばれるのです。真の愛を中心として定着が始まるのです。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情が真の愛を中心として連結されるのです。それが焦点なのです。神様と愛で一つになることによって霊肉が完成したので、ここで父母が出てきて息子、娘を生むのです。神様が創造当時に感じたことを再び感じるようにするために、私たちに贈り物としてくれたのが息子、娘です。(2443101993.3.1)
             

2020年5月7日木曜日

「神様は絶対的です、唯一、永遠、不変なのです。それは否定する道理がないのです。そのような愛をもった人は、絶対的な幸福者であり、唯一的な幸福者であり、永遠的な幸福者であり、不変的な幸福者です。」人間の生と霊魂の世界より

第一章人生の行くべき道
二 死に対する正しい理解
6.祝福によって永生の道が開かれる 
「㋺ 愛から永生概念が出てくる」より

 神様の性稟がどういうものか、漠然としているというのです。神様は絶対的です、唯一、永遠、不変なのです。それは否定する道理がないのです。そのような愛をもった人は、絶対的な幸福者であり、唯一的な幸福者であり、永遠的な幸福者であり、不変的な幸福者です。そこに初めて永遠な自由があり、絶対的な自由があり、不変の自由、唯一の自由があるのです。そこで初めて幸福も、絶対、唯一、不変、永遠なものがあるというのです。そこに連結されてこそ、永生は自動的な結論だ、となるのです。
             *
 この宇宙は、小さなところから大きくなってきました。そして、相対をもらって無限運動をすることで生成されてきたというのです。この空間に存在する慣性により、無限に運動してきたのです。言い換えれば、その相対的基準を中心として、この太陽系であれば太陽系において備えてぴったりと成熟した立場に立ち、無限運動をするというのです。
 これと同じように、アダムとエバも愛を中心として完全に「ため」に生きる愛で一つになれば、無限運動をすることによって永遠、永生が始まるのです。直線には永遠がありません。永生圏がありません。回転するところに永遠が生じます。それゆえに、回転しながらだんだん大きくなっていくのが歴史発展の現象です。その中心は一つです。
             *
永生、私は永生します。神様を中心とした真の愛が私と連結され、神様を中心とした真の生命が私と連結され、神様を中心とした真の血統が私と連結されるのです。結論がはっきりしています。私は永生する、神様のように真の愛を中心として。神様がこのように創造されたのです。皆さんもその責任分担を果たすようになれば、皆さんは成功したということです。
             *
 神様も息をするのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。神様も宇宙の拍子に合わせているために、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。ですから、皆さんがそこまで行かなければなりません。それでこそ、神様の呼吸圏内に入っていって、さっと越えていくのです。

2020年5月6日水曜日

本来の父母だった神様の姿に似なければならないのです。

人間の生と霊魂の世界より
第一章人生の行くべき道

 皆さんの第一の父母は皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。皆さんは、体が大きくなるように、地からすべての要素の供給を受けます。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入っていくことが死ぬことです。第三の父母の所に行く時は、そのまま入っていくのではありません。第三の父母の所に帰ろうと思えば、本来の父母だった神様の姿に似なければならないのです。

2020年5月5日火曜日

「人は何処へ行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。」人間の生と霊魂の世界より

第一章人生の行くべき道
②私たちはどこに進んでいるのか
 人は何処へ行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。霊界は海と同じです。いずれ行かなければならないのです。海にも流れがあるのと同様に、そこには造化の無双な変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水にはない造化の存在たちがいます。海に数多くの魚族がいる様に、そこには数多くの新しい天地家庭がいます。同じです。あの世に行くようになっても同じです。(141-3061986.3.2)

2020年5月4日月曜日

「自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければならなりません。それゆえ、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。」地上生活と霊界より

第七章 我々と霊人との関係
第五節 再臨復活と霊人協助
三 霊界と先祖
 自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければならなりません。それゆえ、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。批判するのはサタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定するということを意味するのです。
  批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。それゆえに、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことができず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。我々人間生活において行くところにには、直行は絶対できません。じぐざぐに行くのです。
  先祖も善の先祖だけいるのではなく、悪い先祖たちも全部関係しています。自分自体が素性的に見るとき、善の先祖の素性をたくさんもっているときはこのように行きますが、悪の先祖の素性を受けた部分もあります。自分の人生においてそのような時が来ます。そういうときは、必ずこのようにするようになります。批判すれば大変なことになるのです。それゆえ、「判断するな」という言葉も、みなそのような道理から出てくる言葉です。(76・139,1975.2.2)

 真の愛をもてば、神様が宴会をするその場にいつでも同参することができます。時間と空間を超越するために、霊界に数千の先祖たちがいても、一目でみな見るのです。これを管理して、超越するのは、真の愛の心をもった人だけが可能なのです。
神様の相続権を受け得る特権を得ることができる道は、愛の道にだけあるのです。真の愛をもった人が、自分の体をかすめて通り過ぎても、全部喜ぶのであって、反抗しないのです。全部が歓迎するのです。あの世がそのようになっているために、ここでそのような訓練を受けなければならないのです。
 先生がこのようなことを教えてあげるのは、天の世界に行くことができる人、天の世界で呼吸することができ、拍子を合わせることができる人をつくるためです。それでこそ踊りを踊る場で、踊れるのです。そうでなくては、拍子が合わないのです。先生ももう霊界に行くべきではないですか。先生の後ろには、サタンがついて来れないのです。(147・116,1986.8.31)

2020年5月3日日曜日

み言『堕落とは何かというと、み言と実体と心情の因縁が離れていったのです。 ですから、皆さんがみ言を知って、み言を実践しなければなりません。 み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。 蕩減復帰をすることができる実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげることができます。』地上生活と霊界より

第六章 我々と霊界入籍
第三節 霊界入籍

 四 入籍の条件
   堕落とは何かというと、み言と実体と心情の因縁が離れていったのです。
ですから、皆さんがみ言を知って、み言を実践しなければなりません。
み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。
蕩減復帰をすることができる実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげることができます。
口先だけではいけません。
こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体になるのです。
  我々の生命現象において、霊形体と生命体と生霊体があります。これらは霊界の反応的な現象なので、この世で霊形体、生命体、生霊体と同様の因縁を経るのです。
生霊体になればそこに入籍して、自分の位置を見つけて入るのが復帰の路程です。ですから今からは、皆さんが入籍するのです。
 もしそのようにつながって入籍される場合には、皆さんがいくら過って、いくら失敗をしたとしても、サタン世界で立てた法をもっては、処理できないようになります。アメリカ人たちを韓国の国法をもって処理することができますか。国籍が違うからできません。  そのような圏内に入れば、その圏内の法だけが適用されるようになります。ですから、サタン世界の法は、いったん越えさえすれば、いくらどのようにしても適用されないのです。
サタン世界の法が適用されないのですから、結局はこの世の法をもってしてはいけないということです。
ですから、地獄には行かないようになるのです。
  人は一度生まれたなら、一度は死ななければならないのです。
それは公式です。では、死んでからどこに行くのですか。
統一教会員は、霊人体があるということを知っています。その霊人体は、育たなければならないのです。
  これから、皆さんに問題となることとは何かというと、時が来れば、全体が自分の自叙伝を書かなければならないのです。
統一教会に入ってきて何をしたか、その記録の内容が何かというのです。ここにおいて、どこかの会社に就職して生活したといった内容は、何の条件にもならないのです。
かえって、統一教会に入って会社にいたという事実は、恥ずかしいことです。今に、そういう時が来ます。
  これから、入籍が始まります。南北が統一されれば、入籍をしなければなりません。宗族的メシヤという言葉が問題なのではありません。その内容と事実が問題なのです。そのようなすべてのみ言の内容が、今後自分が永遠の道を行くための蕩減条件になるのです。
あの世に行って、皆さんがその道を行くために、心で体恤しながらどれほど努力したか、努力だけでなく実績をどれほど残したかということが問題になるのです。
  救いの道というものは、今まで生きてきた、そのままの習慣的生活を通じて得ることができるものではありません。
完全に蕩減の道を行かなければならないのです。救いの摂理は、復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。それゆえ、再創造されるためには、堕落する前と同様に、本然の位置、ゼロの位置に帰らなければならないのです。
 そこには、意識もなく、習慣もなく、金氏とか李氏とか、自分の姓もないのです。
そのようなゼロの位置に帰らなければなりません。天の創造本然の基準から見ると、造られたすべての万物は、ゼロから出発したのです。
  ところで、人間が堕落することによって、天国に行く途中、その道に反することが人間世界にあふれているのです。これを切ってしまわなければなりません。
それは言葉ではできません。すべての民族が、サタンの愛を中心として、サタンの生命、サタンの血統と因縁を結んで歩んできた歴史的文化背景の中で、習慣性、あるいは風習が混在しているために、これはそのままでは除去されないのです。
  聖書は、「死なんとする者は生きん」と言いました。歴史的な論理がそれで成立するのです。死のうとしてこそ生きるのです。
自分の生命を投入しなければならないのです。それで、このすべてを洗濯すべきです。
言い換えれば、蕩減して、復帰しなければならないのです。そのような過程が、絶対に必要なのです。
  堕落世界で所有していた習慣性とか、罪悪性が残っている限り、神様と関係を結ぶことはできないのです。(二一三│九七)

2020年5月2日土曜日

『必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。  自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。』地上生活と霊界より

第六章 我々と霊界入籍
第三節 霊界入籍

二 霊界に行くときもっていく贈り物
『いくら殺人強盗だとしても、証拠物がないときは、判事でもどうすることもできません。強盗が、「私が殺人をしたのをいつ見たか」と立ち上がれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だにできません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じることは、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、そのようなものが証拠だと思いますか。そのような証拠をもって何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないということです。
 皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもって行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。皆さんがどのような苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のためだと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行きながら、天国に行く時は手ぶらで体だけ行くことができますか。
 皆さんは統一教会の信徒として、神様からどんな使命をもらった者たちですか。皆さんは、神様の精兵として、神様の息子、娘として、結婚するようになれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうするために、皆さんは暮らすようになります。独立性を育てなければならないのです。このような高潔な使命が、皆さんにあるのです。それゆえ、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏で使命を賦与された人たちであるということを忘れてはいけません。
 皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の後孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食よりもっとかわいそうです。乞食たちは時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。
 このような責任を完遂するのに、神様が「十年間にせよ」と言ったなら、十年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かすことができる子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どのように短縮させますか。神様が計画した十年という期間を、七年に短縮させるためには、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を収拾することはできないのです。統一教会の信徒たちは、このような責任を負って行く人たちにならなければなりません。
 そのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はみな終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要なため、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされるすべての与件を備えるためには、必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。
 自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けている」と言われなければなりません。
 ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。(三二七一)』

2020年5月1日金曜日

み言『「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう?  何をもって分立するでしょうか。 蕩減の道を通じて分立しなければなりません。  学者も大統領も、例外ではありません。 蕩減の道は、探して行かなければなりません。 蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。 自分が探して行かなければなりません。 これをしないと、地獄に行くのです。』地上生活と霊界より

第六章 我々と霊界入籍
第二節 審判と公認
 二 天国に行くパスポートを準備せよ
「誰にも最後の日が来ます。
サタン世界で最後の理想世界を立てるためには、あらゆる体験をして、そこに合格しなればいけません。
 天国に行くパスポートをもたなければなりません。
パスポートをもらった個人と家庭と国家がたくさん現れなければなりません。
パスポートをもった国家があってこそ、神様が天地を任せることができるのです。
  パスポートは、サタンを追放するのです。
サタンは来れないというのです。生活の中で、サタンが関係しません。
サタンの干渉を受けないようにするには分立しなければなりません。
個人分立、家庭分立、氏族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立までしなければなりません。
「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう?
 何をもって分立するでしょうか。
蕩減の道を通じて分立しなければなりません。
 学者も大統領も、例外ではありません。
蕩減の道は、探して行かなければなりません。
蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。
自分が探して行かなければなりません。
これをしないと、地獄に行くのです。
地獄の鎖が、皆さんの目に、鼻に、考えに、みな引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。
堕落ということを、ひっくり返すために必要なことなのです。
  白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。
サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。
それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。
生きているとは名ばかりで、死んでいるということを知るべきです。
これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。(一二九│一八三)」

2020年4月29日水曜日

み言『本来堕落しなかったなら、霊界に行った全ての人達が「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格を持つのです。これをもたずには、天上界に行けない様になっているのが原理です。 …』地上生活と霊界より

第五節 真の父母の家庭と霊界
  一 霊界の長子権成立  
興進が霊界に行く事によって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子の様に一つに結ばれる様になりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。これが原理観です。 
興進は息子格のアベルですが、その息子は、「真の父母」の愛の原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤から霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それ故、堕落以後、最初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件を持っているのです。本来堕落しなかったなら、霊界に行った全ての人達が「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格を持つのです。これをもたずには、天上界に行けない様になっているのが原理です。 
イエス様やキリスト教は、今迄その立場を経る事ができずに行った為に、全部中間霊界にいるのです。所で、興進が行く事によって、神様と接ぎ木する事が出来る中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場に成るのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問する事が出来る霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。興進の家庭基盤を設定したという事が、最も貴いのです。 
イエス様が死んだとしても、この様な事ができたなら、今日キリスト教はその様に犠牲になりません。しかし、仕方がないと言うのです。何故でしょうか。「真の父母」の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去し、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかった為に、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。 
興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしていると言うのです。そうなれば、どんな事が起こるのでしょうか。霊界と地上を双子の様な心情圏として見る時、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち縦的に見れば、父母が先立ったのです。興進が二代なのです。下だと言うのです。 
ところが、霊界では反対だと言うのです。地上で先生と興進の出生について見る時、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外の全ての霊人達は、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、その様に成るのです。神様の立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は小さい息子に成るのです。 
霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として最初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまに成るのです。それで、長子権の心情基準が興進をつかんで入るという結論が出てくるのです。これは原理講義する時、よく説明しなければならないのです。 
今霊界にいる霊人達の前に、イエス様の前にもそうであり、全ての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だと言うのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だという事です。 
それ故、興進が、長子権の福を次子圏に相続してやる事が出来るのです。サタンは、相続してやるまいとしたのです。サタンは、相続をしてやらず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上に行っていた福を全部残してくれると言うのです。ですから、つながります。今迄サタン世界は、全部残してやるまいとするのに、興進は絶えず残してやろうとするのです。(一三一―五二)

2020年4月24日金曜日

4/24のみ言「天国と地獄は自身が選択する」地上生活と霊界 第四章 天 国より

地上生活と霊界
第四章 天 国
第四節 天国の門と天国入城

四 天国と地獄は自身が選択する

 信仰生活をしながら、我々は不平を言ってはいけません。不平を言える内容がありません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながら、笑って行くべきなのです。このように教えてあげましたが、それをどうしますか。しなければ、できません。神様もできません。先生もできないのです。
 それゆえ、天国に行き、地獄に行くのは、自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのではなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言うところを感謝していけば、天国なのです。(九六―一二二)

 天国へは、誰かが教えてあげて行くようになっていません。良心的に生きる人は、自動的に行くようになっている所が天国です。太陽の光が差せば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草木までも、自ら方向性をもって回るのに、まして万物の霊長である人間が、自分の行くべき道を知らないはずがないのです。このような現象が起こるのです。(七五―四二)

2020年4月3日金曜日

天聖経『地上生活と霊界』第三章 「霊界」「四 霊的体恤の過程」のみ言

四 霊的体恤の過程

 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。
 主体は確定していますが、自分は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。
 自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。
 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。
 全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。
 そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。
 我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。
 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」とかという言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。
 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前一時に祈祷するのと、三時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。
 そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間にうまくいくかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。うまくいくというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。
 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっているために、それをより分けて行くということは、限りなく難しいのです。
 このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ7 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。
 それゆえ、信仰生活で一番重要なこととは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、最も重要な問題です。それゆえ、皆さんが信仰生活でいつも注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。
 それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
 だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。
 昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感じるようになっています。
 それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。
 このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。
 我々の心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ7 今、こんな時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
 そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に暗示という言葉あります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀にとどまっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。
 実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。
 この段階を過ぎるようになれば、どんな形態が起こるでしょうか。夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に第三の天を体験しました。
 そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出せというのです。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、一〇〇パーセント的中するようになります。そんな体験があるでしょう。
 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことを言うのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることを言います。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることを言います。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。
 そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、そんなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかっためであり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。
 祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
 それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように探す心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
 それゆえ、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そんな形態が繰り広げられるのです。
 我々の体には、触覚のようなものがあって、全部接触します。それで、見えない電波のようなものを発射して、対象を探しています。
 それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。
 皆さん全部が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。
 その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、我々は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな幻想が繰り広げられるのです。
 そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。我々の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平のような面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで、全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。
 啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。それゆえ、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰が高貴なために、啓発していかなければなりません。
 我々食口たちは、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、我々の体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。
 それゆえ、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
 このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に一〇〇パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。
 皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
 このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは我々の信仰生活に最も必要なことです。
 そのような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。大概、我々人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。
 そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様7」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。
 大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。
 世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に伯仲する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
 それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれません。
 我々人間には、二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。初めは太いのですが、細くとがれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ我々は、これを調整する生活をしなければなりません。
 祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです。(七六―一二五)